教会において、聖母マリアはキリストに次いでもっとも多く絵画や彫像に表されてきました。それは『福音書』や外典の『ヤコブ原福音書』、そして中世に広く読まれた『黄金伝説』などが、「受胎告知」、「東方三博士の礼拝」「エジプトへの逃避」、「マリアの神殿奉献」、「マリアの結婚」、「聖母被昇天」など、マリアの生涯についていろいろなモチーフを提供してきたからです。しかし、それだけでなく、特に「聖母子像」ということになると、マリアをめぐる神学上?教義上の決定がより重要かもしれません。
431年のエフェソス公会議は、「神性と人性とを兼ね備えたキリスト」の母として、マリアに「神の母」の称号を認めました。つまり、マリアは「聖なる存在」と認められ、聖母子像はますます人々の崇敬の対象となります。間もなくコンスタンティノープルに皇妃プルケリアによって福音書記者ルカが描いたとされる聖母子像を収める聖堂が建てられます。ローマでもこの公会議を記念してサンタ?マリア?マッジョーレ大聖堂が改築されますが、ここにも聖ルカ直筆のイコンがあったとされ、いずれの都市においても、これらのイコンが戦乱や疫病の危機を退けたという奇跡が伝わっています。
東方に発した聖母崇敬は、マリアに関わる祝日の西方への導入や、クリュニー会やシトー会での崇敬を通じて、その後の西欧でも高まりを見せます。聖ルカのイコンは聖母が幼子イエスを左腕に抱く構図だったとされますが、祝福するイエスを玉座に座して膝に抱く「荘厳の聖母」や幼子に乳をふくませる「授乳の聖母」が、またルネサンスが近づくと、幼子に頬を寄せたり優しい表情をうかべたりする「愛すべき聖母」など、より人間味のある聖母子像が、聖堂のアプシスや祭壇画、あるいは王候の宮廷を飾ることになりました。
(キリスト教文化研究所 渡邊 浩)