前回は、潜伏していたキリシタンが1865年に長崎大浦天主堂のプチジャン神父に名乗り出たこと、そこから全世界に日本での奇跡的な信徒発見のニュースが伝えられたこと、欧米からの圧力によって1873年にキリシタン禁制の高札は撤去され、キリスト教は解禁されたことを書きました。
外国人居留地から自由に外に出ることが許されていなかったパリ外国宣教会の宣教師たちにも、内地旅行が緩和され、教会は急速に進展し始めました。宣教師たちは村から村へと巡り歩き、道々目にする悲惨な状況にある病人、子供、老人などに心を留めて小さな居場所を作りました。その世話のためにフランスから修道会を招き、医療、教育、福祉などの事業に発展させていきました。
1891年に日本の教会は、長崎、大阪、東京、函館の4つの司教区に分けられ、函館元町教会の主任司祭だったベルリオーズ師が、函館教区の司教に叙階されました。南樺太と千島を含む北海道全域と新潟と東北6県からなる広大な教区に、働き手は司教を含めて12名の司祭と24名の伝道士だけで、司祭も伝道士も各地を巡回しました。
ベルリオーズ司教は、巡回地だけではなく所在地を持つ教会を建てることに着手しました。開拓地北海道には、迫害を逃れて入植してきたキリスト教徒が大勢いるのに、宣教師不足でした。そのため、ベルリオーズ司教は、1905年に宣教師と宣教資金を集めるためにヨーロッパに出かけました。ローマで、彼はマリアの宣教者フランシスコ会という女子修道会の総長に会員の派遣を要請し、快諾を得ました。そしてその指導と司牧のために、男子修道会であるフランシスコ会の総長に司祭の派遣を依頼しました。
1907年1月にフランシスコ会ドイツ?フルダ管区のキノルド師と、カナダ管区のベルタン師が札幌に到着し、日本におけるフランシスコ会の再宣教が、およそ400年ぶりに実現したのです。「日本に再来したフランシスコ会の新教会はこうして設立された。活動としてはまず語学を教えることから始め、希望者数は英語、フランス語、ドイツ語の3つを合わせて110名となった。メンバーの大半は農学校の先生、学生、医者であった」とキノルド師は書いています。フランシスコ会は、札幌の北部地域を受け持つことになりました。